希少な伝統文化を
今に伝える

  1. HOME
  2. 萬屋仁兵衛の願い

祭礼人形=神憑りの役

~二代目 萬屋仁兵衛の願い~
古来より、神事として継承されてきた「祭礼」が、日本全国で粛々と執り行われています。
江戸時代から続く、名古屋を中心とする「山車祭り」においては、戦災で多くの山車が焼失しました。
戦火から逃れ現存している、祭礼行事が保存会諸氏、老若男女 参加者皆様のご尽力により継承されており、
多くの「お祭り」が、各々地域にて、有形・無形民俗文化財として登録され大切に守られています。

祭礼人形は、神の依代として祀られ人形戯(にんぎょうぎ)を奉納し疫難を退散します。
萬屋祭礼人形より、皆様のご多幸を祈念いたします。
日本伝統芸能・文化を取り巻く演者様、職人皆様のご健勝を祈ります。
萬屋仁兵衛は、祭礼文化を後世に正しく残すことを使命とし、精進していく所存でございます。


祭礼人形との出会い

幼い頃から地元祭礼である「出来町天王祭」稽古へ熱心に通い、祭り独特の雰囲気が大好きで、山車の上で生き生きと演舞する「祭礼人形」に惹かれた少年時代を過ごしました。
成人した後、記憶を頼りに我流で人形を作りましたが、どうしても頭(かしら)が彫れず、※木偶師(でくし)八代目玉屋庄兵衛氏(後の初代萬屋仁兵衛)の元へ訪ね、一年間の体験見学を経て、熱意が認められ弟子入りを勧められました。
一番弟子となった28歳の春、師匠より名前を頂き、木偶師「玉屋文造」が誕生しました。

※木偶師とは:江戸時代より尾張地方において、主に山車に搭載される祭礼人形の制作、修理する細工師の呼名です。

初代萬屋仁兵衛 誕生~
二代目萬屋仁兵衛 襲名

正式に弟子入りした3年後、師匠に末期癌が罹患します。「玉屋庄兵衛」の後継は弟へ譲ることを決め、闘病の最中、一番弟子に思いを託し改名を告げます。先代は「尊敬する※隅田仁兵衛のように確かな文化として後世に残る仕事がしたい」との発想の上に「仁兵衛」の名前をもらいうけたこと、「新しい作品をなんでも創る」念いを込めて萬屋(よろずや)と名付け、晩年に「初代萬屋仁兵衛」に改名し襲名半年後、45歳の若さで他界します(1950年~1995年)先代亡き後、若い人形師を良しとしない嫌がらせや、妨害行為をうけましたが、人形を守る為に必死に仕事に取組む日々でした。

※隅田仁兵衛:名古屋からくり人形細工師の名工
(?~1852年)

祭礼人形に込められた思いを未来に繋ぐ・・

工房を引き継ぎ5年後、平成12年(2000年)の区切りの年に当時、春日井市長の後押しと、中部電力副社長に取り仕切り頂いたこと、先代後援会「レダ会」のご支援を賜り、襲名式にて大勢の祝福をうけ、一番弟子であった「萬屋仁兵衛文造」へ引継がれ、正式に「二代目萬屋仁兵衛」を襲名しました。

「郷土の誇り」といえる祭礼人形において、現在まで数百体を超える修復に携わってきました。未来永劫に守られることを切に願い、大変特殊な文化財復元修理及び創作品制作に挑戦し続けています。

ほとんどの人々は、「日本の祭り」を好み何らかの形でかかわると想察します。信仰の背景には神様に感謝し、「疫病退散、無病息災、五穀豊穣」を願います。町の祭人達が切磋琢磨し、現代の世においても祈りを捧げ、脈々と神事が継承されています。

祭礼人形師 二代目萬屋仁兵衛は、祭礼文化および芸能を支える全てが健全に守られることを願います。